フクシマの事故が起きてから一ヶ月は、世界中の人が「逃げろ!」「頼むから逃げて」
「なぜ逃げない」「逃げてから戻るかどうか考えればいいじゃないか」と日本に向かって叫び続けていた。
なぜあれほどの被曝を受け続けながら汚染された町に居座っているのか理解できない、と考えた。
しかし、想像力を働かせてみれば、いつもと同じ風景の何も変わらない穏やかな住み慣れた町にいるのに、「逃げろ」とゆわれても、ピンとくるはずがない。
セシウムやストロンチウムの同位体がせめて火山灰のようなものであれば、窓を閉めきっていれさえ見る見るうちに室内い堆積する「汚染」に怖じけをふるって、あるいは嫌気がさして、その場合にはたとえ無害でも逃げ出したことでしょう。
人間もまた自然の一部なので、自然の世界の事象には「勘」というものが働く。
泥水色の濁水は「飲んでもダイジョーブです」とゆわれても、なかなか飲めるものではない。
クルマの表面も干した洗濯物にも肌にもシャツにも髪の毛にも、しつこくしつこくまとわりついてくる放射性物質が目に見える汚れならば、言われなくても遠くの町に行ったのかもしれません。
勘が働かない、ということは防御の姿勢がとれない、ということでもある。
目に見えないものを「危険だ」とゆわれるのも「安全だ」とゆわれるのも、どっちも人間にとっては「実感が湧かない」点では同じで当たり前である。
どちらよりに考えても起きる実感が同じならば、いままでどおりの方が楽でもあれば「安全」でもあると考えるのは当然のなりゆきなのかもしれません。